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信楽焼 奥田英山 先生

英山先生は真摯な作風と古典に根付いた基本の上に新しい試みに取り組んでおられます。今回は7月27日にご訪問させて頂きました。

▲英山先生のお点前でお抹茶を頂戴致しました。お茶名は「宗英」さんです。先生は昭和19年生まれ、63歳になられます。お写真では分かりませんが、185cm、長身の先生です。 ▲工房入口(看板筆-清水公照先生)
▲工房 ▲展示室

公式サイト:http://www.eonet.ne.jp/~eizangama/index.htm

住 所 〒529-1851 滋賀県甲賀市信楽町長野1036
電 話 0748-82-0114
最寄駅 信楽高原鉄道 信楽駅

狸の置物が出迎えてくれます。
観光地 ■甲賀市信楽伝統産業会館
信楽の歴史展をはじめ・日常使われるもの伝統工芸・現代陶芸に至るまで年間を通して幅広く展示されています。先生の工房の近くです。


■陶芸の森
海抜350m.、甲子園球場約10個分の敷地に四季の花が咲く中に、展示館があります。信楽の町並み、山並みを見渡せる自然の中で陶芸と出合ったり、散策できます。

プロフィール

●陶歴
昭和19年 信楽に生まれる。
昭和38年 県立高校卒業後、父について修業と同時に裏千家茶道を学ぶ。
昭和48年 茶名「宗英」を拝命。
昭和50年 茶道文化研究所に入り古賀健蔵先生に御指導いただく。
昭和51年 高麗、鶏龍山の窯跡を訪ねる。
昭和60年 京都野村美術館で個展。
昭和62年 東大寺長老清水公照先生のご指導をいただく。
昭和63年 東京日本橋三越本店で個展。
昭和64年 大阪三越ギャラリーで個展。
平成4年 信楽焼伝統工芸士に認定される。
平成6年 京都大丸で個展。
平成7年 倉敷三越で個展。
平成10年 社団法人裏千家淡交会滋賀支部顧問を委嘱される。
平成12年 福岡三越で個展。
平成13年 仙台三越で個展。
平成14年 高松三越、奈良近鉄で個展。
平成15年 『公照と奥田英山窯』と題して姫路書写の里美術工芸館にて作品展。各地で個展。
平成16年 京都、広島、大分、宮崎、千葉、各地で個展。
平成17年 大阪、福岡で個展。
平成18年 東京、大阪、大津、町田各地で個展。

信楽焼

小山富士夫先生が提唱された「日本六古窯」とされる瀬戸、常滑、越前、丹波、備前、信楽の六陶産地が、陶器づくりを始めたのは平安末期から鎌倉時代にかけてであろうと言われています。須恵器(朝鮮式土器)の穴窯やロクロの製陶技術の影響を受けて始まり日本の土器(土師器)の流れを汲んで、産地となっていきました。明治10年、宮内庁で編集された「工芸志科」によりますと、信楽焼は弘安年間(1278~1287年)鎌倉中期に始まるとされています。信楽焼の古窯跡調査により、壷、甕類と共に沢山の擂鉢が出土しています。擂鉢は、1191年(鎌倉時代)禅宗が伝来し、それに伴って精進料理として豆を用いて擂る食料が伝えられ、普及したことにより、当時各地で擂鉢の需要が高まり、焼かれ荘園の外へ販売され(鎌倉幕府の許可により)、信楽をはじめ各陶器産地が形成されていきました。

「古信楽」とは中世穴窯で焼かれたやきものを総称し、信楽焼の創始時代(鎌倉時代)から安土・桃山時代までの品物(主として壷類、甕類、擂鉢、茶陶)をいいます。慶長年間からは「登り窯」に移行し、江戸時代には殆ど古代穴窯は使われなくなっていました。古代穴窯は、須恵器窯を見習って山麓の山腹を利用し、トンネル状の穴を掘り、焼成室となる部分は広く、その奥に煙道となる穴を上方に開けています。窯の前方は日当たりの良い南方が空けている立地で、近くに谷川など水があり陶土(原土)や薪も近くにある山麓を選んで窯場にしているのが殆どであります。特徴は無施釉で焼成し、土を焼いた色が独特の明るい肌色(火色)になり、温かい土味を出しています。重なって焼き上がり、炎の加減や水分など、焼成中の窯内の変化で「自然釉」とする器面の景色が様々に変化して焼き上がり、「ビードロ」「火色」「焦げ」が品物それぞれに現れます。口造りには古常滑、古瀬戸の影響を受けたものと思われる「二重口」「折返し口」(断面が逆U型のような)があります。又、室町時代に焼かれた「古信楽」にのみ、縄目文(又は檜垣文とも呼ぶ)の紋様がほどこされています。これらの事などから、昔から、識者、数奇者の方々に称賛されてきました。

元和8年(1622年)江戸時代初期から大正天皇御大典の時まで、徳川幕府の命により、「御茶壷師」と認定された信楽焼の陶工により、登り窯で「献上茶壷」が製作されました。これにより、全国的に認識される陶器産地としての地盤を確立しました。「献上茶壷」は腰から下は白色釉、上は茶色又は茶黒色です。肩には四個の耳がついており、耳と耳の間に逆U字形の流し釉(土灰釉)が施されています。別名「腰白茶壷」・「信玄壷」とも言います。江戸時代はあらゆる生活必需品が殆ど陶磁器によって取り揃えられようになり、信楽焼でも登り窯への移行で大小各種の茶壷を主力にして、あらゆる生活必需品が大量に焼成されました。「荒土」とも称される蛙目粘土、及び木節粘土での壷などの大物が特徴的でありましたが、江戸時代初期から明治・大正時代まで、水簸土(漉土)による磁器と間違うほどの精巧な薄作り小物も焼かれていました。

寛政年間(1789~1800年)、瀬戸より白萩釉・銅青磁釉が伝わり、「青スダレ」又は「スダレ流し」「縄垂れ」の装飾技法が生まれました。焼成によって上から下へ垂れ流れる釉薬による技法で、地釉の白萩釉(白濁色)の上へ肩あたりから竹筒や管の杓に銅青磁釉を入れて下方へ垂れ流しながら線状に施釉し、焼成によって、白地釉に青緑色の美しい線模様を作り出し、コバルト釉を用い青色も加えるようになりました。細密に規則正しく流れ線模様を焼き上げ、幕末から明治にかけて多用されました。

大正時代を境として、瀬戸焼などの磁器製品に圧倒され、次第に水簸土による陶器製小物の生産は衰退し、火鉢、壷など大物陶器の産地として信楽焼のカラーが形成されて行きました。第二次大戦後の日本で、火鉢は暖房具として欠かすことの出来ないものであり、信楽焼の火鉢は爆発的な需要を受け全国各地に送られ、陶器産地信楽の名を知らしめる主力製品になりました。この火鉢に多く用いられたのが「海鼠釉」です。珍味の「なまこ」の姿のような、青藍紫色と白色失透色が粒状に溶け合った斑点模様を「海鼠釉」といいます。信楽では明治に入ってから「海鼠釉」の開発が始まり明治33年頃完成しました。

昭和40年頃から、火鉢から植木鉢に主力が移りました。昭和26年11月15日、昭和天皇がはじめて信楽へ御行幸された時、沿道に並べられた日の丸を持った狸の置物をご覧になり、「幼なとき あつめしからになつかしも 信楽焼の狸をみれば」という歌を詠まれ、新聞などで公表されました。、皇太子の時に狸のやきもの集めて楽しんでおられ、そのことを思い出し、なつかしい思い出であるという歌を詠まれたのでした。この時から今では狸のやきもの産地として、狸のやきものが信楽の町の顔として、多くの観光客の方に親しまれています。

現在、大型陶板、建築用陶板、大型美術陶板等々、陶芸の技や伝統を踏まえた樣々なタイプのセラミックを巾広く生み出し、先端技術を世界的に広めています。

信楽焼の土

信楽の陶土は耐火性があり、また長硅石粒を含み、粗い土質であるが、木節粘土を調合すると可塑性もあり、腰もあるので、特に大物や肉厚の物を造るには最適の陶土であります。近年、全国各地の陶芸教室など、陶土の無い所でやきもの造りをされる方々にも広く使われています。焼くと(特に薪で焼いた時)、土質や炎の加減や水分(湿気)、塩分、灰分などの様々な条件、作用によって、信楽独特のほの赤い、温かい土の味、美しい火色(肌色、ピンク系、赤・黄褐色系、灰色、ヌケ【物と物の接点に部分的に白くなる現象】等)を生み出します。又その器面に、ビードロ釉や焦げの織り成す自然釉の景色を創り出します。これらも火色という基盤があってこそ一層生かされ映えてきます。

インタビュー

英山先生は13年前に大事故に遭われましたが、大怪我を克服され、今はお元気になられ、作陶されています。本当に心優しい先生です。
●信楽焼との出会い----
先代の父は信楽生まれで、火鉢などの製陶業をしており、晩年茶陶の道に入りました。子供の頃から父の仕事を見て手伝い、何の迷いも無く高校卒業後、父について修業を始めました。同時に茶道・華道のお稽古も始めました。
●信楽の土について----
粘土の中に長石系の土(石粒)が入っており、鉄分の含有量は少ないです。薪で焼くと、炎のかかっている部分に火色が出まして、景色になります。温度が1,300度近くになりますと、長石と降り掛かった灰が反応してビードロ状、焦げになります。この火色、ビードロ、焦げが信楽焼の大きな見どころです。今は黄瀬(きのせ)の土と他の土をブレンド(ブレンド率は個人によって違います。)していますが、黄瀬の土は、掘る場所に限りがあり、現在あまり取れません。白絵土(しらえつち)は白刷毛目化粧に使います。
●窯焚きについて----
穴窯で年3回焚きます。(夏以外)窯の温度は1,250~1,300度になり、3日半~4日焼き、1日冷まします。収縮率は12~13%であまり焼締まりません。
●薪について----
アカマツが主です。アカマツは油分が多いので炎が長く、火色が出やすいと思います。

英山先生とのお話の中で先生の人生ではお二人の大恩人抜きにして語れないとのことでした。お二人とも故人になられますが、野村美術館主査学芸員の古賀健藏先生と大仏殿昭和大修理・落慶大法要の時、東大寺管長であられた 清水公照長老のお二人です。
●古賀健藏先生について----
先生には作家としての基礎をお教え戴きました。出会いは1975年、近くの浄観寺(じょうかんじ)のお茶席開きで同席させて頂きましたのが、最初でした。それから先生の茶道文化研究会に入れて頂き、その後度々、野村美術館の陳列のお手伝いやお茶会のお手伝いをさせて頂き、沢山の本物の作品に触れさせて頂き、御指導頂きました。作品の重さ、手触りが体感でき、本当に貴重な経験をさせて頂き、今の私の作品造りの基盤になっています。又、先生が行かれるお茶会、お茶事、ご旅行にもご一緒させて頂きました。1976年には韓国の古窯を巡る旅行にご一緒させて頂き、先生のお薦めで求めましたお茶碗が思い出の品でございます。無地刷毛目茶碗でして、使うほど雨漏り手のように変化してきます。鵬雲斎大宗匠様に銘「清友」と御書付け頂きました。お教え戴いた信楽焼を作る時のポイントは
1)信楽焼の茶道具のメインは水を入れる水指、花入である。
2)茶碗はお点前(茶筌、茶巾を使う時)、お客様(お茶を頂く時)両方が扱い易いように、茶碗をお茶に馴染ませてからお客様にお納めする。
3)香合は、きっちりとした立上がりと中の広さが大切である(伊賀焼梅花香合を見せて頂きながら)
4)灰器は炉の炭点前がし易いのが大前提である事。  
片手で持てる軽さ・大きさである。  
炉縁を傷つけない・灰匙でしめし灰が掬い易いように、底のカーブを考える。
(淡交社刊「原色茶道大辞典」に掲載されている灰器を見せて頂きながら)
●清水公照先生について----
先生は私の命、人生の大恩人です。私が42歳(昭和61年)の時に、小学校からの親友が交通事故で亡くなり、落ち込んでいる時に公照先生の知人の方が東大寺に連れて行ってくださいました。先生はその頃(長老になられていました)、各地の窯元で「泥仏(どろぼとけ)」を手作りされており、信楽の窯で初めて「泥仏」を焼いて頂きました。以後、何回か「泥仏」を焼いて戴いている内に、私の作品が生れ変ってきました。色々な所にもお供させて頂き、又先生のお字、絵を描かれた作品も数多く焼かせて頂きました。私は50歳の時(平成6年5月)、信楽で交通事故に遭い、2週間危篤状態になりました(脳内出血、脳挫傷)。病院に公照先生と奥様がお見舞いに来てくださり、私の顔を見るなり大丈夫と言ってくださり、私の意識が少し戻った時に、「大丈夫」と書いた色紙を持って来てくださいました。それからは奇跡的に回復し、7月末の陶器祭りまでに帰りたいという望みが叶い、7月に退院する事が出来ました。退院後はリハビリに精を出し、私の友人から畠山美術館の券を頂き、9月に妻の手助けの下、行かせて頂きました。その時に出会ったのが、「仁清作 錠花入」です。入館券の写真作品にもなっており、知人の学芸員さんにお願いし、直接見せて頂きました。後、この花入の写しを作らせて頂きました。リハビリを続け、年末には干支(子)の茶碗も出来るようになりました。公照先生には感謝の気持ちで一杯です。本当に有り難うございました。

▲清水公照先生の「泥仏」です。 ▲穴窯の前で ▲広間のお床には清水公照先生の「一火神変」のお軸を掛けておられます。

●先生にとって、茶道とは----
1973年にはお茶名「宗英」を戴き、私にとって無くてはならないものです。普及に少しでもお役に立てればと常々思っています。青年部の活動のお手伝いや学校の陶芸教室などを通して、茶道の楽しみを皆様に体感してほしいと思っています。
●作品、これから目指される方向----
今、仁清信楽写しのお茶碗を手掛けています。内側全てに釉が薄く掛かっております。これにより、茶筌、茶巾が扱い易いようになっています。正面には絵を描いています。お茶室で信楽焼きがひとつでも使って頂けるよう、そういう作品を作っていきたいと思っています。
●ご子息へ----
長男英仁(ひでひと)は31歳になりまして、私、妻と同じく高校時代はバレーボールをしており、身長は195cmあります。お茶のお稽古もしております。世の中の移り変わりが速く、厳しい時代の中、息子にバトンタッチしていかなくてはなりませんが、作品をお使い戴く先生方に受け入れて頂けるよう、これから益々、努力してほしいと願っています。
●好きな言葉----
「一火神変」です。この言葉は清水公照先生に初めてお会いした時に、先生より戴いたお軸の言葉です。窯の中に作品を入れ、火を入れれば、火を絶やさない様に焼くだけで、自分ではどうする事も出来無い。後は神様、仏様次第です。普段から精進しなさいと言う意味です。

▲「仁清意 箪瓢水指」 本歌は京都の土に黄瀬の土が少し混ざり、京都で焼かれています。 仁清が金森宗和指導の下、作陶したのが蓋の摘みから推測されます。 □の摘みの中に禾の字が書かれています。「和」の字になります。
▲「鎹耳付花入」 カスガイは上下を留める、繋ぐことからまとまり、一致団結の意味になるようです。 ▲「筆洗茶碗」
 
▲「仁清意 忍草茶碗」お茶碗の内側に釉が掛かっています。  

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