萩焼深川本窯 十三代 田原陶兵衛 先生
陶兵衛先生は伝統の技と代々の精神を受け継ぎながら、自らの萩焼を探求しておられます。
▲陶兵衛先生は昭和26年生まれ、56歳になられます。 | ▲深川窯の入り口です。(MAP内のA付近) |
▲先生のお宅の入り口です。 | ▲工房 この奥に登り窯があります。 |
住 所 | 〒660-0864 兵庫県尼崎市東櫻木町17番地寺町通 |
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電 話 | 06-6411-2016 |
最寄駅 | 阪神尼崎駅 |
住 所 | 〒759-4103 山口県長門市深川湯本三之瀬 →MAP 緑豊な静かな所です。 |
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電 話 | 0837-25-3406 |
最寄駅 | ○JR西日本:美祢線 長門湯本駅=バス:湯本温泉駅バス停 =約700m ○車:中国自動車道 美祢インター=国道316号線 約30分 |
観光地 | ■湯本温泉 おとずれ川のせせらぎが旅の心を和ませてくれるしっとりとした温泉で、先生の工房の近くです。ナトリウム系で肌がすべすべするそうです。 ■曹洞宗大寧寺(たいねいじ) 本堂:県指定有形文化財 境内:県指定史跡・緑地環境保全地域 先生の工房より車で約7分 |
プロフィール
●田原家
田原家は豊臣秀吉公の文禄・慶長の役に際して、日本に渡来した朝鮮李朝の陶工李勺光の高弟として共に広島から萩に移住し、松本の御用窯を始めた松本ノ介左衛門を始祖とし、三之瀬焼物所開窯者の一人赤川助左衛門を初代として、代々赤川助左衛門を称して藩の御用を勤めてきました。
幕末、八代喜代蔵の時、縁あって嫡男謙治が田原姓を名乗り、陶兵衛を称することとなりましたが、江戸初期以来、陶業一筋に子々孫々に守り伝え現在に至っておられます。
始 祖 松本ノ 介左衛門(赤川助左衛門)
十七世紀初頭、毛利輝元公の萩移封に際し、 李勺光と共に安芸国より移住し、
松本の御用焼物所に御雇細工人として召し抱えられる。
初 代 赤川 助左衛門
明暦三年、同族と共に萩松本より深川三之瀬に移住し、蔵崎五郎左衛門等と協力して三之瀬焼物所を開窯する。
二 代 赤川 三左衛門
寛文年間、支藩岩国吉川家より度々焼物御用を仰付かる。寛文八年、岩国にて陶技指導。
三 代 赤川 忠兵衛
四 代 赤川 佐々ヱ門
五 代 赤川 忠兵衛(喜右衛門)
宝暦十三年、一族共同の窯、東ノ新窯を増築する。
六 代 赤川 喜右衛門
安永三年、赤川姓の一代名字を許される。
天明三年、「由緒並名字御免之証拠物」を藩庁へ提出。
天明六年、御雇細工人として召し抱えられる。
七 代 赤川 忠兵衛
八 代 赤川 喜代蔵 晩年毛利家の御一門、吉敷毛利家の御家頼分となる。
九 代 田原 謙治(陶兵衛)
慶応元年、吉敷毛利家の御家頼田原家の名跡を嗣ぐが、
引続き深川・三之瀬にて家業に従事する。
十 代 田原 守雄(高麗陶兵衛)
現在地に新しく窯を築く。ドイツ等外国を含め各地の
博覧会に出品し萩焼振興に努める。
十一代 田原 忠太郎(高麗陶兵衛)
昭和十八年、技術保存窯に指定される。
昭和二十二年、芸術陶器窯に認定される。
十二代 田原 源次郎(陶兵衛)
昭和五十六年、山口県指定無形文化財萩焼保持者に認定される。
日本工芸会理事
十三代 田原 謙次(陶兵衛)
平成四年十一月十五日襲名
日本工芸会正会員
●十三代陶歴
昭和26年 十二代の長男として生まれる。
昭和50年 武蔵野美術大学大学院修了師 加藤達美先生、これより二年間唐津にて修業
師 中里重利先生
昭和52年 荒川豊蔵先生のもとに互窯会結成
昭和59年 田部美術館大賞茶の湯の造形展入選(以後入選を重ねる)
平成2年 日本伝統工芸展入選(以後入選を重ねる)
平成4年 十三代 陶兵衛を襲名
平成5年 東京日本橋高島屋にて襲名記念展(以後各地にて個展)
平成11年 山口県芸術文化振興奨励賞受賞
平成12年 『やきもの探訪』(NHK-BS)出演、萩焼四百年記念パリ展出品 、現在 日本工芸会正会員
萩焼
「一楽、二萩、三唐津」と茶人に愛されてきた萩焼は、桃山時代に朝鮮半島より渡来し、脚光を浴びた「高麗茶碗」の系譜を引く茶陶として、広く知られています。
その起源は、豊臣秀吉公の文禄・慶長の役に際して、日本に渡来した朝鮮李朝の陶工李勺光(りしゃっこう:秀吉から毛利輝元に預けられたといわれています)、李敬(りけい:李勺光の弟?)が、十七世紀初頭、毛利輝元公に従って安芸の広島から長門の萩に移り、李朝前期の陶技を以って城下の松本中之倉に開窯した萩藩御用焼物所がその始まりです。
その後約半世紀の後、李勺光の子、山村新兵衛光政の高弟、蔵崎五郎左衛門、赤川助左衛門の一統が、藩の許しを得て、深川三之瀬(ふかわそうのせ)の地に移り、大寧寺の山林を薪山として窯を築きました。
土は「大道土(だいどうつち)」を使用。現在、萩(松本)は、坂家、三輪家、古賀家等、深川は田原家、坂倉家、坂田家、新庄家などがあります。ざんぐりとした手触り、土の持つ温かみ、使い込む程に肌合いが変化していく様子が「萩の七化け」と言われ、お茶人に喜ばれてきました。
インタビュー
田原先生にお話をお聞きしました。 田原先生は中学時代はバレーボール、大学時代はサッカー、今も週一回はソフトバレーボールをされているスポーツマンで、趣味は音楽鑑賞のやさしい、素敵な先生です。
●先代、お父様について----
父は自由に育ててくれたので、子供の頃から、自然と家業に接して、大学、大学院と進み、家業を継ぎました。唐津修業後は父を師匠として見、自分から見て技を盗みました。息子も今、大学で彫刻を専攻していますが、物を作り出す原点を勉強してくれれば良いと思っています。それを作陶に生かしてくれればと思います。
●唐津修業について----
大学院卒業後、唐津、中里重利先生のところに、約2年間(25~26歳)修業に行きました。それまでは、先代(父)の作品しか見ていないので、先代の価値観が自分の価値観でしたが、修業によって、新しい価値観ができ、父の作品を第三者的立場で見れるようになりました。これは非常に大きかったと思います。
●萩焼の土について----
萩焼のメインの土は「大道(だいどう)土」です。大道は、ここ深川、萩より40~50キロの距離です。普通、窯場は土の採れる所に築きますが、萩焼は藩御用窯なので、城と温泉の近くに窯を築いたと思います。
土は白く、鉄分が少なく、火に強い(唐津の土より強いと思います)が、焼締まりが少ないので柔らかく、あたたか味があり、見た目よりも軽い作品になります。又、水をよく吸収して、作品の色が変化します。この変化が『萩の七化け』と言われ、萩焼の特徴となっています。
●窯焚きについて----
窯焚きは 春・夏・冬の年3回です。夏は湿気があり、変化激しく、窯変が出やすく、冬はよく燃え、びわ色が出やすくなります。時間は約30時間(朝~翌夕方)で窯内の温度は約1250度になります。窯詰の方法は窯によって異なりますが、当家は天秤(てんびん)積みという方法の積み方です。「天秤積み」とは円筒系の柱に天秤という板を重ね、柱のまわりに作品を積む方法で、バランスと配置を考えながら積みます。
▲登り窯で年3回(春、夏、冬)、焚かれます。 | ▲天秤(てんびん)積みです。 |
●取り扱いについて----
茶碗、食器は乾いた状態では使用しないで下さい。(乾いたお茶碗に、お抹茶を入れないで下さい)使用前に必ずぬるま湯、水につけ、染み込ませてからお使い下さい。(水をよく吸い込みます)そうすることにより、変な汚れが付きません。新しいお茶碗は、毎日お茶を飲んで頂ければ、2~3ヶ月で落ち着いた良い色に変化してきます。それだけ水がよく浸透していますので、
箱に仕舞う時は、2~3週間、十分乾かしてから仕舞って下さい。
●作品について----
<灰被>灰被は窯の中で、灰に埋もれて焼きあがる作品で、積もった灰が自然の釉薬になり、独特の味わいある景色をかもし出します。窯詰めの最後に作品を並べますが、置く場所が限られる為、一窯で数点程しか入らず、全くとれないこともあります。
灰被は三代前から取り組み、研究を重ねており、特に茶碗に灰被を施すのは田原家の特徴のひとつです。
<皮鯨、沓形茶碗>萩焼の伝統を守りつつ、修業した唐津焼と融合した作品です。これからも、 萩焼はお茶の世界で育まれた焼物なので、自分の創作を加えながら心和む茶碗を作り続けていきたいと思います。
●好きな言葉----
私の子供の頃から我が家にあります大寧寺の三代前の井原徹学師の「感謝」の額を工房のお茶室に飾っています。自然、ご先祖様、周りの方々に対する感謝の気持ちを常に忘れず、行動していきたいと思っております。
▲工房内お茶室に飾っておられる「感謝」の額(筆ー大寧寺三代前、井原徹学師)と先生が今取り組んでおられる窯変で柄を表す「窯変文シリーズ」の作品、「窯変文皿」です。しなやかな曲線とそこから生じるオレンジ色のグラデーションが美しい大皿です。 |
▲萩茶碗 | ▲萩茶碗 |
唐津焼の特徴のひとつ「皮鯨」と萩の「割高台」を融合したお茶碗です。同種の作品が茶碗として初めて、日本伝統工芸展に入選(平成10年)し、陶兵衛先生の思い入れのある作品です。 | ▲田原家の特徴のひとつ灰被作品<灰被茶碗> 灰色から白、白からピンク、びわ色に、美しい色の変化が見られ、炎と灰の調和が見られます。 |
▲田原家の特徴のひとつ灰被作品<灰被耳付花入> |